他の者達よりも遅めの昼休みを、俺は会社の屋上で過ごしていた。
見渡しの良いフェンスの縁に腰かけると、さっき、コンビニで買ってきたサンドイッチとコーヒーをさっさと腹の中に入る。
ビルの間を抜ける風が、初夏の中にも関わらず、心地よい。階下の喧騒もここには微かに届くのみで、静かだった。
人気のない静かな屋上はそれだけで俺のお気に入りの場所と化していた。
俺は、食事を終えると、ポケットから愛用の煙草を取り出し、中の一本に火をつける。
[Kool]のきついメンソールが食後の口内を洗い流して、俺はホッと一息ついた。
何事もない平凡な毎日。
誰かを思って心痛める事も、
自身の境遇に自嘲する事もない。
今の俺には何者にも変え難い、心穏やかな愛しい日々だった。
ーーーガチャン
扉の開く音に、そちらを振向くと、大きな犬が尾っぽをふってこちらに駆けて来る所だった。
……いや、大きな犬、ではなく、立派な人間で、俺の部下、野村優輔だ。
やつの動作は、どうしても犬の様に見える。
そんな野村が大きな声で俺を呼びながら、抱きついてきた。
「しゅっにーんっ!」
「おわっ!」
正にがばっと。だ。
いきなり抱きつかれた俺は、危うく持っていた煙草で焼けどしそうになった。
こいつは、俺が煙草を吸っているのが分からないのだろうか。
手にある煙草を気にしながら、抱きつく野村の顎に自分の肘を入れ押しやる。ついでにずり落ちた眼鏡も直す。
野村は「ふがっ」と声を漏らしていたが、そんな事気にする必要もなく、無言でぐいぐい押し続けた。そうして、やっと引き剥がす事に成功する。
「勝手に抱きつくな。それに、俺はもう主任じゃない。あと、煙草持っているのに気付かないのか?危ないだろう、俺が」
矢継ぎ早に言葉を発すると、野村がうれしそうに尾っぽを振って、
「主任、オレの事心配してくれるんっすね。俺、うれしいですっ!!」
と、のたまった。
満面の笑みで、そう返されると、呆れてものが言えない。
いや、言うんだが。
「お前、俺の話しを聞いているか?」
「はい、聞いてます。もちろんです!」
「だったら、きちんと理解しろ、俺はお前の心配などしていない。それに、もう主任じゃない。何度言わせれば気が済むんだ?お前は」
怒りに任せて、冷たく言いやると、野村はしゅんと頭を垂れた。
「すみません、つい……」
そう言って、不安げに俺を見るその様子があまりにしょげ返っているので、少し罪悪感に駆られてしまった。だから、笑顔を野村に向け、優しく言ってやる。大サービスだ。
「もういい。それで何の用だ?」
俺の笑顔に再び浮上したのか、野村はにこにこと表情を変え、俺の手を握る。
「だ、か、ら、野村。俺、煙草持ってんの。分かってるか?」
「す、すみませんっ」
野村は慌てて手を離すと、俺に謝った。
学習能力の低い野村が相手だし、怒る気も失せ、煙草に目をやる。
もう煙草はフィルターを燃やす程になっていたので、それを携帯灰皿に押し付け火を消した。
「まったく、お前の所為で、1本煙草損したぞ」
「すみません、でも、オレどーしても、しゅ、……上条さんに褒めて欲しくって、焦っちゃって」
「……で、なんだ?早く言え」
野村の言葉を促しながら、俺はまた煙草に火をつけ、紫煙を吸い込む。
「はい、えっと、この前のプレゼンなんですけど、あれ、取れました!オレが取ったんです!!」
ものすごい笑顔で言い放つ野村の言葉に俺は息を呑む。
「そうか。でもな、オレが取ったとは何だ。プレゼンはお前一人でやった事か?資料の整理は誰が手伝ってくれた?企画会議は何人が参加していた?デザインもお前一人で完成させたのか?」
「……いえ、課の皆が協力してくれました」
少し言いすぎかとも思うが、ここで、図に乗らす訳にもいかないから、釘をさすと、みるみる野村の顔から笑みが消え、小さな声で言葉を紡ぎ、そのままうな垂れてしまった。
きつい言い方には理由もある、少しばかり、意地悪も入っているのだ。
なぜなら、こいつと賭けをしているからだ。
連敗中でやる気が出ていない野村にハッパをかける為に、つい言ってしまった。
『このプレゼン、取れたら、お前の言う事を一つだけ聞いてやる』
と。
俄然やる気を出した野村は見事に連敗をストップさせて、俺の目の前に居る。
こいつの要求を呑まなければならない羽目になったのだ、少しくらいはへこましてもいいだろう。
だが、いつまでもへこましているのもうっとうしいので、もちろんフォローを忘れない。
「分かっているならいい。……だが、よくやったな。野村。おめでとう」
俺の言葉を聞き、野村は顔を挙げると笑顔を戻し、復活する。
この男は本当に扱いやすい。
俺の一言にいちいち反応する。それがまた、こちらの狙いどうりだったりするから、ついからかいたくなる時がある。
そんな野村は正に飼い主に従順な大型犬だ。
「ありがとうございますっ!!しゅ、上条さんっ!!!」
また主任と呼びそうになっている野村に苦笑しながら、俺は煙草を消す。
「で、ですね、約束、覚えてますよね」
来た来た。と思いつつ、俺は残っていた缶コーヒーを飲み干した。
「なんだったかな?」
「ええっ!!約束ですよ、今回のプレゼンで仕事を取ったらオレの言う事なんでも聞いてくれるって。上条さん言ったじゃないですか!」
忘れられていると思った野村は、焦って俺に詰め寄ってくる。
それを避けながら、俺はにやりと笑った。
「一回だけだぞ?」
「……覚えてるんじゃないですか。からかわないでください。必死なんですから。もう。忘れてたら、どうしてやろうかと思いましたよ」
「どうしてやるって、お前、ぶっそうだな。なんか。……で、何をさせたい?」
野村は「えっとですね」と言いながら、俺の横に立つと、そのまま地べたに座り込んだ。
「何だ?」
「上条さん、ここに、座ってください」
自分の足を広げ、空いた空間を指差す野村に、俺は唖然とする。
「は?」
「だから、ここに座って、後ろからぎゅーとさせてください」
「お前、馬鹿?」
「馬鹿じゃないです。だって、上条さん、全然オレに甘えてくれないし、こんな事させてくれないじゃないですかっ」
ぶすくれて、こちらを見る野村に俺は呆れて、再度言ってやる。
「お前、馬鹿?お前と俺は上司と部下。それ以上でも以下でもないだろう?それに、俺を一回とは言え自由に使えるんだ、もっとマシな要求はないのか?」
「ひ、酷い、上司と部下だけなんて……それ以上の事もした事あるじゃないですか」
片手を目に当て、泣き真似をする野村をボカリとグーで殴りつけ、不遜な言葉を止める。
「あれは、不可抗力というもんだ」
「不可抗力って、何回あるんですかっ。何度も何度も、何度もやれば、上条さんの恋人になれたと思ってあたりまえでしょう!」
【何度も】という言葉を三度も使って野村はそれを強調した。
恋人、というのはまだ無理があるが、不可抗力という言葉では片付けられない程に野村と関係を持ったのも確かだ。
だが、野村は俺が弱っている時に限って誘う。
よく俺の事を見ている、と思う。
そんな野村に何度助けられた事だろう。
「お前の恋人になったつもりはない。だが、もう、いい。分かった、そこに座ればいいんだろう?」
「不満は残りますけど……オレもいいです。ここに座ってくれれば」
そんな野村の言葉に、俺は苦笑ししながらも野村の言うとおりの場所へと座った。
腰を下ろしたとたん、後ろから野村の腕が伸びてきて、俺は野村の胸に身体を預ける格好になる。
「会社なんだがな、ここは」
「大丈夫です、ボードに外出の札貼ってきましたから」
用意周到な野村の行動に俺は笑ってしまった。
まあ、いい。
今日は特別急ぎの仕事もないのだから、ここでしばらく野村にご褒美をあげるか。
そう思って、身体の力を抜き、空を見上げると、抜けるような青い空に、微笑む野村の顔が見えた。
続く
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